フォト

おすすめ本

« 黒ブラウスのおてんばさん | トップページ | かぼちゃのモンブラン »

「ヴィクトリア女王―大英帝国の“戦う女王”」

君塚直隆「ヴィクトリア女王―大英帝国の“戦う女王”」中公新書

ヴィクトリア女王の若き日を描いた映画をテレビで見た後に、読んでみました。

19世紀イギリスの繁栄期に64年近くも女王の座にあったヴィクトリア。
「君臨すれども統治せず」という言葉もあったため、政治にはあまり口を出さなかったような印象がありますが、実際はそうでもなく、かなり熱心だったという実像を紹介。
女性であり、若くして即位、9人の子だくさんで家庭的なイメージといったあたりから、実際よりも政治的でないと思われているそう。

王家の跡継ぎがいなくなりそうだった時期の問題から始まり、結婚出産ラッシュ。
しかし早世した子もあって、四男の娘ヴィクトリアしか跡継ぎはいない事態に。
ヴィクトリア自身は伯父にあたる王に気に入られていましたが、母親ケント公妃はドイツ人だったために王に信頼されていなかったいきさつも。

首相や大臣達との対立や交流ぶりが具体的に。
メルバーン首相を師と仰いで信頼しましたが、政権交代がおき、身近な女官も取り替えなければならなくなって、当初はこれを拒否したために揉めることに。
メルバーンは妻子を亡くした後で、父娘のようだったらしい。

ディズレーリやグラッドストン、名前は覚えていたけど、詳しいことはすっかり忘れていたので、また印象が変わりました。
自由主義のグラッドストンとは仲が悪く、ヨーロッパのもめ事に不干渉な態度を無責任と感じたらしい。世間にも不評となって辞めたがまた復帰、長年勤め上げて辞めたときにも冷たい態度だったとか。

女王が拡張政策に熱心だったという一面も。
長女のヴィクトリアがドイツ皇太子(後の皇帝フリードリヒ3世)と結婚したため、ドイツとも縁が深かったのですね。
ビスマルクを嫌っていましたが、対面したときに互いに印象が変わったという。
ロシアのことはかなり警戒していて、ロシアが帝国であるために、一つランクが低い「女王」というだけでなく張り合える「インド女帝」の称号を望んでいたとも。
(1872年に女帝の称号を得る)
子どもや孫が各国の王家と縁を結んだので、ヨーロッパ一のゴッドマザーになってゆく。

1861年、42歳の時に最愛の夫アルバート公が亡くなってしまう。
その後は、生涯喪服で通したため、政治に関心を失ったと思われてもいます。
実際に10年ほどは国民の前に姿を現さなくなったのですが、離宮で静養していても書類は持ってこさせ、政務には関わっていたそう。そして、10年ほどたってからは、やはり国民の前に出なければと思うようになったらしい。
黒い服で通しましたが、子どもの結婚の時には白いベールを付け、在位50年の時には黒いドレスに銀の刺しゅう、60年の時には金の刺しゅうをしたとか。

長男で跡継ぎのバーティには失望していて、30になっても何も実権を与えなかったのは失策だったと批判的に書かれています。
確かにバーティは、大学を中退してしまった遊び人ではあったんですね。
自身が喪に服している時期には、バーティに何かさせた方が良かったかもねえ。

1893年には、ロシアの皇太子ニコライ二世がロンドンを訪問。
バーティの次男ジョージ(後のジョージ5世)の結婚式に出るためでした。ニコライとジョージは母親同士がデンマーク王女で姉妹という従兄弟で、そっくりだったという。
翌1894年には、皇帝になったニコライ2世と、女王の孫娘のアリックスが結婚。
後にロシア革命で倒された一家ですね。皇帝の方が格が上なため、結婚式はロシアで行われました。
結婚相手が公国の出だったりすれば、結婚式はイギリスで、ということになる。
面白かったです。

女王は、1901年1月に81歳で死去。
世紀の葬列を夏目漱石が目撃したとか。ちょうど留学していて、下宿の主人の肩に乗ったんだとか。
自分の整理のために~年号など含めてメモしておきました。
2007年発行。

« 黒ブラウスのおてんばさん | トップページ | かぼちゃのモンブラン »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「ヴィクトリア女王―大英帝国の“戦う女王”」:

« 黒ブラウスのおてんばさん | トップページ | かぼちゃのモンブラン »

2019年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カテゴリー

無料ブログはココログ

最近のトラックバック